そんな39歳の時、京都青年会議所の理事長に就任。それまでの親睦を深める目的だけではなく、互いに実益のある会にしたいと考えて香港青年会議所との提携の他に、タブー視されていた異業種交流や収益イベントを企画した。
しかし、ボランティアに重点を置いていた組織だけに、多くの会員経営者からそっぽを向かれた。それでも、自分の信念を強く主張し、気配りも重ねることで400名を引っ張り、計画を大成功に導きながらリーダーシップを学んだ。
その自信を胸に、ますます仕事に力が入った40歳の時、労働組合団体から「成長企業の義務として社内に組合を作れ」と圧力をかけられた。「社内に不満も出ていないのにわざわざ労使対立を招く必要はない」と、初めて父の意見を聞き入れなかった。そして自らが矢面に立って要求を突っぱね、店のトイレや取引銀行、百貨店にまで中傷のビラを撒かれた半年間。その苦痛に初めて胃を痛めながら、逆に「社員会」を組織して懸命に社内コミュニケーションを深めた。
その間にも、全国規模のチェーン店が京都の市場に入り込み、本店をはじめ12店のレストランでも売上にかげりが見えだす。「資本力を使って全力で拡大路線を採る会社には勝ち目がない」という思いが日に日に募った。マーケティング会社を交えて次の一手の模索を続ける数年の中、父は60代後半を迎えて入退院を繰り返し、副社長として経営責任が更に大きくのしかかってきた。
「のれんがないから拡大するしかない競合会社と、なんで同じ土俵で戦うんや」。常連客の声が頭に響いた。ついにチェーン店を閉じ、残した2店舗からも美濃吉の名を外し、アメリカ視察で見た外食チェーン展開の夢を捨てた。
そして、本物志向の高まりを見据え、伝統の京料理を手ごろな値段で提供しようと、10数ヵ所の百貨店店舗の方向転換を図った。同時に父が打ち出したのが、年間20万人が来店し10億円を売り上げる本店を閉じ、美濃吉総本山にふさわしい料亭へ回帰させる計画だった。そのリスクの大きさに、他の場所へ小さな規模の新規出店を提案しても一蹴された。「社運を賭けて本店を変えることで、美濃吉の価値を上げるんや」と言う父に経営者の覚悟を見た。
25億円の半分を借り入れて改装着工後すぐにバブルが崩壊。外食産業に価格破壊の波が押し寄せる中で、客単価を以前の4倍に設定した「京懐石 美濃吉 竹茂楼」が開亭した。ところが、全国の百貨店店舗で美濃吉の名を知った新規客が「これが美濃吉の本店か」と予約もなく次々と訪れ、予測をはるかに上回る大盛況を呈した。のれんの力をまざまざと見せつけられた。
そして、平成不況まっただ中の1995年に父が退き49歳で社長に就任。銀行の貸し渋り傾向は強まり、メインバンクが倒産して出店資金の調達はできない。その間に全ての既存店に足を運び、内装から食器、そして一つひとつの料理の味や接客を確認した。竹茂楼を基準とした時に、そのあまりのレベルの違いに愕然とした。
売上の下がった店にはすぐに足を運び、料理を試食すると確実に味が落ちていた。「お客様の声こそ受け止めなさい」と言っても、「自分はよい料理を作っている」と頑なに主張する職人気質の社員を根気強く説得する。入社5年目までの社員が問題点を出し合って議論する「社長塾」で、若手の能力開発に力を入れた。そんな5年を経ると、不況にあえぐ経済の中で逆に利益率は向上。そして、「本物を味わえる店」として全国で認められ、のれんに磨きがかかった。
2002年、父は名実ともに繁栄する美濃吉を見届けて帰らぬ人となった。父が自由に挑戦させてくれたからこそ夢中になれた自分にも気づき、翌年からは成長してきた若手社員を配して出店を加速させた。予算制を敷き、季節の食材だけを統一させてあとは全て個々の店の社員に任せた。「サービスを押し付けず、お客様の声を聞け」と現場を回って伝え続け、250名の社員とマンツーマンで話をして信頼関係を築いて、マニュアル化の逆を突き進んだ。
跡継ぎとしての宿命を完全に受け入れることで迷うことなく無我夢中に走ってきた。夢には破れても全力を傾けて取り組んだからこそ、のれんの大切さを理解でき、顧客指向に立ち戻って今の美濃吉を作り上げられたと自負する。
59歳の今初めて、父も祖父も、時代の変化の中をただ必死に駆け抜けただけなのだろうと気がついた。そんな人たちが10代も続き、一つののれんが290年も守られてきたことに感動を覚える。「果敢に挑戦し続けることが老舗の仕事や」という父の言葉をかみ締め、いよいよのれんを次世代に託していく。