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深田浩嗣さん

 山や川で真っ黒になって遊び回り、お泊り会などを開いて大勢で遊ぶのが好きな子ども。一人になると偉人伝や生物図鑑などを読みふけり、ビデオデッキの分解やTVゲームにも興じた。ただ、成績は群を抜いて優秀でも、人をまとめる学級委員などは苦手に感じた。
 祖父が興した織物会社の役員として海外出張などでいつも忙しくしている父。聴覚障害を持って生まれた4歳年下の妹は必死に訓練を重ねていて、それを支えながら懸命に家庭を切り盛りする母。妹たちのそんな努力を見て自然と自立心が高まり、母に心配はかけまいと低学年の頃から通信教材を使って地道に勉強した。「みんな頑張っているんだから、僕も頑張れる」と、6年からは嫌いだった塾にも通って受験勉強に励み、中高一貫の難関中学に合格を果たした。
 中・高時代は、体を鍛えようと入部したテニスに手応えを感じ、自主練や京都一厳しいスクールにも通って技術を磨き、府の強化選手に選抜されたり、近畿大会にも出場する。クラスの友人たちと力を合わせるのは楽しくても、それ以上に真剣にテニスに取り組む学外の人との交流が刺激的。「巨人の星」などを好んで読み、キャプテンなどの役割は仲間に任せて練習にひたすら没頭した。
 ただ、小さい頃から練習を積み上げた人でも通用しないプロのレベルの高さを次第に感じ、部活を引退すると受験勉強に時間を費やした。1年の頃から海外に興味を持って英語のヒアリングマラソンをしたり、通信教育での勉強を始めていた。「最高峰を目指そう」と京都大学だけを受験して合格を果たした。


20歳の頃の家族でのスキー旅行の際に妹と。
20歳の頃の家族でのスキー旅行の際に妹と。初めてネットに触れて衝撃を受けていた頃。

 大学という新しい環境の中で「新しく全エネルギーを投入できるものを見つけよう」と思った。有り余る時間で様々な本を読み、ボランティア活動も行うツアーで何ヵ国も旅をして見聞を広げた。Windows95が発売された1年のときにPCを購入していて、ネットや海外に住む友人と瞬時に連絡が取れるメールに触れて、「こんな便利な技術を何でみんな使わないんだろう!」と興奮した。
 ただ、就職情報誌を開いても働くイメージは湧かず、「一緒に働けばおもしろそう」とエネルギーを感じる企業人との巡り合いもない。自ら進むべき道は見えずに大学院進学を決め、ネットの勉強ができる研究室に入ってみても、社会にリアルに役立つことを学ぶ場ではないとわかって悶々とした。
 そんな中、大学院で片岡俊行さんという同級生に出会った。彼が作った「ゆめみ亭」というチャットサイトでは、何百人もの利用者がそのコミュニケーションツールを使って楽しんでいる。プログラムの修正やチャット参加者への対応など、三日三晩PCの前で作業に没頭し、その場で寝入ってしまう片岡さんの姿にも衝撃を受けた。「大きな可能性を秘めたネットの世界でこのすごい奴とならきっと何かができる!」とやがて授業そっちのけで夢中に手伝い始めた。
 同時に、自分で聴覚障害者向けのコミュニティサイトを制作し、妹にも書き込みを協力してもらった。するとサイト内で相談を持ちかけた人に多くの利用者が助言をする様子を目の当たりにして、「この人たちの役に立てたんだ」と心が弾む。1年の秋には、片岡さんと「この世界で独立したいね」と話し始めた。
 情報収集のためにネットビジネスの交流会に参加すると、同年代のベンチャー起業家たちがエネルギッシュに討論している。その姿に触発されて頻繁に様々な会合に顔を出すうちに、「サイトを作って欲しい」「こんなプログラムはできる?」などとWEB知識が重宝がられて小さな仕事が舞い込み始め、たった3ヵ月で数百万円の稼ぎになった。上場したベンチャー企業の技術を見ては、「これなら俺たちでも会社としてやっていけそうだ」と片岡さんと話をした。


 ただ、コミュニティサイトの運営では稼ぐ方法がわからない。あるとき、発売直後のiモードに着目して携帯用のサイトを作ってみると、たった1ヵ月で数万人もの書き込みがある。「どうせならこの新しい分野で行こう」と決断し、それぞれが親から借りて1000万円を揃え、もう一人の同級生も引き入れた。
 「新しいものをどんどん生み出そう」「ユーザーに喜ばれるものを作らないと意味がないんだ」と、ITバブルがもたらした華やかな成功像よりも3人の大切にしたいことを何度も話し合い、片岡さんを社長にして会社を設立した。「やっと見つけたんだ。失敗したって失うものはない」と思った。23歳だった。
 自宅隣の空家に家からLANケーブルを数十メートル這わせて作業場のような事務所を作り、知人から受けた仕事にひたすらPCに向かって泊り込みで作業する。すぐに携帯電話販売会社の社長が公式サイトの開発・製作という大きな案件を任せてくれて、10人近い大学の友人にアルバイトで手伝ってもらった。
 しかし、手掛けた懸賞サイトはユーザーが毎日1000人ずつ増えてサーバーがパンクするなど嬉しいトラブルが後を絶たない。「課金制のユーザーに迷惑はかけられない!」と発注会社に夜中でも駆けつけて朝まで復旧させる日々。そして公私の区別なく一日中行動を共にする仲間たちと様々な想いを語り合った。
 主に顧客との折衝やプロジェクト管理を担当し、スタッフが苦労していればプログラミングも徹夜でヘルプする。経理や給与計算などの山積みされた業務に休むこともなく全力で立ち向かい、何もかもが新鮮で疲れも感じない。スタッフたちも土日返上で取り組んでくれる様子を見て、それが当たり前のように思った。
 創業から半年で東京に移り住んだ片岡さんは古い小さなマンションを拠点として、携帯ショッピングサイトを協業で立ち上げる話をまとめてきた。ただ、関西でもそれまでの人脈でモバイル知識を得たい人から様々な相談を持ちかけられている。「東京でなくても大きな需要はある」と踏んで、有力企業からも引く手あまたの同級生たちに夢を語って10人近くを正社員として迎え入れた。


(記載内容は2006年9月時点における情報です)