1996年、32歳で副社長に就任すると、父の復帰により、大きなプレッシャーからは解放された。しかし、取引の30〜40%を占める百貨店の深刻な顧客離れや倒産に直面し、社員の頑張りに反して販路が縮小していくジレンマを味わう。「新しい販売チャネルを開拓しよう」と意気込んで共同出資したオークション会社も不発に終わった。
「そろそろ本気で経営をしたい」と訴え、35歳で社長に就任。しかし、重責を一人で背負う自信はなく、70歳を過ぎた父に会長職に残ってもらった。専務となった義兄に「僕は仕入れに、お兄さんは営業に力を入れて会社を盛り立てよう」と協力を求める。そして、義兄とベテラン社員が営業方針の違いで対立するのを横目に、「会社が潰れたら経営者の俺が責任を取るんや。普段は好きにさせてもらおう」と、ただただ仕入れに没頭した。
ところが、社長就任2年目に大きな危機が訪れた。会社の中核だった40歳前後の社員が、一人二人と去っていく。営業力が下がり、銀行の貸し渋りにも苦しむ2001年、初めて「このままでは創業以来の赤字決算です」と財務担当に告げられた。
苦し紛れに、ブームのように叫ばれる「選択と集中」の経営理論に飛びつき、「支店を閉じて通信販売にしよう」と父に訴えると、「這いずり回って売ったらええんや」と一蹴された。「洋画をメインにするべきなのか・・・」。掛け軸を飾る床の間がない家が増える中、3代にわたって取り扱ってきた日本書画からの撤退さえも頭をよぎった。
悩んでいる間にも、「会社の将来が見えない」「力を付けたからには独立したい」と、次々ベテラン社員が会社を去っていく。「俺の会社には魅力がないんや・・・」と、返す言葉も失い、ストレスとプレッシャーから十二指腸潰瘍を患って薬が手放せない日々。やがてトップセールスを誇り、頼りにしていた義兄までもが独立してしまい、気がつくと社員は経験の浅い20〜30代ばかりになっていた。
「俺が目指した経営者の仕事とは一体何なんや」。自ら求めて先輩経営者に話を聞き、経営学の本をむさぼり読んだ。更に泊り込みの研修の掛け持ちまでして必死で学ぶと、多くの言葉が心に染み込んだ。「会社は社員のものでもある。自らのビジョンを示し、組織を引っ張るのが経営者なんや」と目からウロコが落ちた。
自らを省みて、「それまで日本美術に何の興味もなかった自分が味わった感動を、一部の資産家だけでなく、多くの人に伝えたい」と強く感じ、「日本文化の伝承、普及、創造」を経営理念として宣言。社員たちが学び合えるように、それまで交流のなかった本社・支社間を横断する部署編成に変更し、各部長に30代を抜擢した。更に、社員が会社づくりに参加する福利厚生委員会や人材育成委員会を設け、自らは現場に降りて、社員と共に営業目標を立てた。
しかし、何かひとつ提案するごとに「できません」と逃げ腰になる社員。「頼むから『できない』という言葉だけは言わないでくれ」と、祈るような気持ちで訴え、辛抱強く会議を重ねた。社員を飲みに誘っては彼らの話にじっと耳を傾け、大好きなゴルフもやめ、休日も返上して本音で語った2年間。
自ら広告塔となるために、業界の反対を押し切ってテレビ出演も決めた。自分の熱意が伝わったのか、初めて社員たちが企画した一般市民向けイベントは大盛況を博し、本気で動き出した若手の力の大爆発で、2005年の年商は、前年の2倍の40億円に上った。
興味の持てない商売だった。それでも、与えられた環境の中で自然と知識を蓄え、追い込まれて本気になってからは仕事がどんどん面白くなった。自らそれを経験しているからこそ、意欲のある若手には、より多くのチャンスを与えて、力を発揮させてやりたい。そして、独立できるほどの実力をつけてもなお、「ここで頑張りたい」と思える魅力ある会社を作りたい。「俺は500億円売る会社にする。だからお前のところで50億円を目指してくれ」と、社員たちと将来を語り合う時、彼らのキラキラと輝く目が何よりも嬉しい。