戦後、京都河原町で純喫茶を始め、昼夜となく働いて次々とレストランを開業した両親。ただ、家では優しい父が店で従業員に怒鳴り散らす姿が好きになれず、「こんな仕事は継ぎたくない」と感じていた。大人たちから将来の夢を聞かれても答えられず、学校では「社長の息子」とからかわれるのが苦痛だった。
懸命に勉強して受けた有名私学に落ちて公立中学に進むと、更に事業を拡大させて運転手付きの外車で通勤する父を他人事のように眺めつつ、豪邸に住んでいるのがカッコ悪くて友人を招けない。窮屈さを感じながらギターを手に取り、部活のサッカーは3年間続けても、夢中になれるものには出会えなかった。
友人の大半が行く公立高に進みたくて手を抜いた私立受験は予想通り滑って、授業はサボり、バンドを組んでリーゼントにサングラス姿でのライブにいそしむ一方で、家では優等生のふりをする高校生活。とうとう成績の悪さが父にばれて「跡継ぎなんやから勉強しろ」と小言を繰り返されては口論になった。
それでも無理に一流大学を受験させられ、軒並み不合格。浪人中のある日、全国30店舗にまで拡大していた会社が突然倒産の危機に陥った。ほとんどの店を閉め、家も車も売って家族4人で小さな事務所の2階に移り住む。憔悴しきった父に、「俺は親父の道は行かん。進学はやめて音楽で飯を食う」と大口を叩いて殴られた。
「金は何とかかき集めたから、大学だけは出ろ」と父に追い立てられて私大に入学して、講義には出ずアルバイトにバンド三昧の日々を送り、卒業間近になっても「音楽で食う」としかうそぶけない。しかし、何とか会社を持ち直した父に逆らうほどの決意はなく、言われるまま名古屋の乳製品メーカーに修行に出た。
年商1000億円を目指して急成長中の企業。早朝の配達から始まる厳しい仕事の中、自分の働いた証が欲しくて懸命に契約を取った。しかし、数百名の営業マン中2位の成績を上げてもやりがいは感じられない。やがて「自分で商売をする手応えが欲しい」と思い始めると、大学時代に憧れを持って見つめていたクラシック音楽の流れる優雅な洋菓子店が頭をよぎった。
1年で会社を辞めて京都に戻ると、早速父に頼み込んで高級住宅街近くの北山に土地を購入。優秀なケーキ職人をチーフに雇い、角砂糖をフランスから取り寄せ、トイレ用品にまでこだわった。「俺の事業を始めるんや」と妻と二人で名前をつけた京都初の超高級ケーキサロン『マールブランシュ』を24歳で意気揚々と開店した。
父の人脈を頼りにダイレクトメールを送ると、激励に訪れる人たちで30坪の店は連日満員。日商は40〜50万円にも上って、接客にてんてこ舞いになりながら「インパクトもあるし大成功や!」と嬉しい悲鳴を上げた。
ところが1ヵ月もすると売上は1日8万円にまで落ち込んだ。「値段が高過ぎるのか?」「接客が悪いのか?」とあわてて見直しを図り、繁盛店のケーキを参考にチーフと試行錯誤を繰り返す日々。しかし、1年目は1000万円の大赤字に終わった。
売上増加の気配は見えない中、睡眠時間を削ってケーキを作る職人たち。「一緒に頑張ろう。丁寧な接客でお客様の心をつかもう」と、みんなに優しく語りかけて、自らも休みなしで駈けずり回った。しかし、毎日のように店を訪れる父は「皿が空いたらすぐに下げろ!」とアルバイトを怒鳴りつける。「俺はゆったりと楽しめる上質な店を作りたいんや」と訴えても、「儲かってへんやないか!」と言い返されて、板ばさみになった従業員が次々辞めて行った。
苦しみ抜いた創業3年を経て、売上が上向き始めた。やっと100名程のお得意先がついた頃。 |
怒りを抑えきれず、夜中に父の元に押しかけては言い争った。そして、とうとう辞表を叩きつけた瞬間、自分を信じて頑張ってくれる従業員たちの顔が浮かんだ。「俺は初めて本気でやりたいと思ったことさえ結果も出せず、また負けて逃げ出すのか?!」と情けない気持ちで一杯になる。「ここでキレたらあかん。俺のやり方で絶対に親父を納得させよう」とついに腹を決めた。
「いつかこの商品が全国の百貨店に並ぶ日が来る」と従業員に語って、商品の開発はもちろん、来店客が見えなくなるまでの見送りや夏の打ち水、包装を待つ間にもお茶を出すなど心を配った。大量注文してくれる顧客への配達にも回って、100枚、200枚と礼状を一心に書き続けた2年間。
やがて、「高いけれどお土産にすると喜ばれる」と熱烈なファンがつき始める。開店から4年、まだ利益はほとんどないもののブランドビジネスの手応えを感じ始める一方で、父の率いる数店のファミレスは全国チェーン店の台頭で赤字を積み重ね、疲れ果てた社員が次々と会社を去って行く。見かねて「夢のない商売は閉じて、マールブランシュに経営資源を集中させよう」と訴えた。「この親不孝もの!」と母に涙を流されても1年かけて父を説得し、資産整理を断行した。
やがて老舗百貨店から「ティーサロンでデザートを出さないか」と話が舞い込んでも、「日持ちのする商品でなければ全国ブランドになれない」と、はやる気持ちを抑えて断って、ギフト商品での誘いを待ち続けた。