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平田好宏さん

 生糸相場で大金が動く網野町で織物業を起こした地元の名士の祖父。家には多くの人が訪れ、住み込み従業員を含めていつもにぎやかだった。独特のアイデアを出して仲間と遊び回り、ふとんにもぐり込んで「金銀より高価なものを作ればお金持ちやなあ」と空想したり、工場で木材を加工して玩具を自分で作る子どもだった。
 ただ、小3のときに祖父が他界すると、跡を継いだ父は道楽者でどんどん商売は減って行く。住み込みもいなくなって静まり返った家で早朝から夜遅くまで身を粉にして働く母を見て、「こんな商売は絶対に継ぎたくない」と思った。
 中学に入ると、将来の道が決まっていて勉強はする気になれず、新聞配達などのバイトでこづかいを稼いでバンド活動を始めた。学校にも行かずに遊び呆けていることが母にバレて、「お前だけが頼りなのに…」と号泣されて心を痛めた。
 祖父の死後も仕事をくれていた京都市内の織物メーカーに就職する道筋をつけられて地元高校の紡織科に進むと、その母が急性の肝臓ガンで命を落とした。「母が守りぬいた家業を継ぐのか…」とは受け入れながら、更に活気がなくなった工場から目を背けるように音楽活動や学外の友人たちとの遊びにふけった3年間。
 そして予定通り西陣の会社に就職し、街遊びを楽しみながら京都や岐阜の工場で機械操作や生産技術を学んでいた20歳のとき、上司から「家業をたたむそうやで」と知らされた。親族たちが中国からの輸入品には対抗できないという理由で決めたと聞き、「将来性も感じられない織物業を継がなくていいんや!」と心が解き放たれた。


 「俺は料理が好きやった。もう自分で仕事を決められるんや」と大阪の調理専門学校に入学して、あまりに授業が物足りなくてすぐに料理屋で働き始めた。勤勉な母の面影を胸に、早朝の買出しから深夜の酒席まで働き、一日の休みがなくても技術が身につくのが楽しくて遊びたい気持ちも起こらない。ところが半年後のある日、車の運転中に突然目の前が真っ暗になって緊急入院させられた。
 お金もない父が毎日のように寿司などを持って見舞いに来るのが不安になって、治療方法をもとに自分の病名を探ると膠原病(こうげんびょう)だとわかった。西洋医学書を読むと治療法は確立しておらず、死の確率も高いという。知人たちに持って来てもらった医学関連書を必死に読み漁る半年間。やがて、夢も希望も持てない西洋医学ではなく、漢方や東洋医学にも目を向けた。そして、楽しいことばかりを考えて自律訓練法などを重ねると、医師も首をかしげるように症状は治まって行った。
 ただ、体というものの不思議さを感じながらも、退院後は地元の料亭でまた和食職人を目指して働き始めた。すると常連客の不動産会社社長が、新しく造る国道沿いの商業エリアに日本料理店を開きたいという。開業資金の保証もするという誘いに、「和食料理人が憧れやけど、生活のためにも喫茶店からなら…」と、まだ強くも願っていなかった飲食店経営に乗り出す決断をした。25歳だった。
 前年に結婚した妻と朝は5時起きで働き、夜にはお酒も出した。月2回の休日にも神戸に出かけて同業を研究し、見つけてきた雑貨をポイント制の景品にすると高校生客たちに大受けした。町が開催するスポーツ大会に便乗して上位入賞者に店独自の賞品を出すと、それ目当てに常連客が増えて行く。思いついたアイデアをすぐに取り入れて店は大繁盛し、開業時の借金も2年で返し切ってしまった。


 一方で、膠原病を再発させないように独自で医療技術の研究を続け、知人などに施術すると肩こりや腰痛が治ったとみんな喜んでくれる。あるとき店に出入りしていた健康器具の販売員から、「療術師」の資格を取れば治療院を開けると聞いた。「俺は飲食業で成功したいのか?家業を継がなくてもよくなったのは、本当に進むべき道に行けということではないのか?」。そんな思いが湧き上がった。
 資格取得のために京都市内の夜間講座に通う1年間で技術に自信も生まれてくる。網野との往復の深夜の車の中で、「自力で難病を克服した俺の仕事はこれと違うのか…?」と自問した。そして29歳のとき、利益も潤沢に出ていた喫茶店を閉め、京都市内の小さなビルに治療院を開設した。新聞チラシを見て訪れた人に低周波治療器なども使って施術するとたいてい症状が和らぎ、口コミで患者が増えて行く。やがて、近くの病院の看護師や部活で体を痛めた高校生も押し寄せて来た。
 しかし、患者が指導通りのホームケアを怠ると病状の回復が遅くなることが悔しくて仕方がない。そこで患者の症例を懸命に研究して行くと、痛みの原因は体の中を流れる「生体電気」の乱れで、それを日常の中で整えられれば、と仮説が浮かび上がった。毎日仕事を終えた夜から明け方まで家にこもり、素人発想で電気炉などを使ってあらゆる素材に手を加え、患者に試してもらっては効用を確かめて行った。
 すると、特殊加工をした石英ガラスの粒をテープで体に貼ると効果が持続して、施術と共に提供して行くと「売ってほしい」という患者が増えて行く。そして、施術料と合わせた価格を心ならずも設定すると、あれよあれよという間に口コミで噂がどんどん広がり、その商品を作っているのか、治療院で治療をしているのかわからない生活になった。やがて33歳になって、より多くの人の苦痛を解消できるなら、と商品拡販のために治療院を閉めた。


(記載内容は2006年10月時点における情報です)