経営者の生き方から自分を活かす働き方発見・学びサイト「CEO-KYOTO」


 「攻めるばかりでなく会計の本質を学んで守りを固めてこそ、組織を大きくできる」「経営を『損得』ではなく『善悪』で考えよ」。稲盛氏が中小企業のオーナーたちに対して情熱的に語るその言葉に強烈な衝撃を受けた。「この人からなら経営の真髄を学べる。今からならまだやり直せる」と、不定期に開催されるその「盛和塾」の会合に、どんな仕事が入ろうとも優先して参加し始めた。
 東日本の生協への売上はどんどん拡大し、年間売上が30億円を超えた34歳のときには東京営業所を開設。そして、稲盛氏の教えを懸命に実践しようとするその姿を見た父は安心したように社長の座を譲った。1988年、37歳だった。 
 努力を続ける尊さ・大切さを訴え、自らが先頭に立ち続けることで、社員たちには顧客の期待に120%応える姿勢などといった仕事への取り組み方は浸透し始めていた。同時に、盛和塾で聞いた話を朝礼で何度も何度も語り続ける。ただ、社員たちの心には届いていなくてただ言葉を重ねるしかないように感じた数年間。IT投資などを進め、京セラを参考に各自が自分の生産性を管理する経営手法も導入して売上は100億円を超えても、「まだ壁がある…」と感じていた。
 バブル崩壊で消費マインドが冷え込んでも陣頭指揮で各生協の取引を拡大させて乗り切ったそんな1995年、塾生が1500人にも増えた盛和塾の全国大会で経営者賞を受賞した。「これこそがみんなの努力への評価なのです」。朝礼でそう報告したとき、女性社員たちが祝福に駆け寄り、初めて社員の中から自然な拍手が巻き起こった。「この一体感をもっと高めていきたい!」と心が叫んだ。


 振り返ってみると、先を見て突っ走って「あれだけ言ったんやからわかってくれている」と思い込み、自分だけが先に進んでいる部分があることに気づいた。「もっと社員との壁をなくしたい。社員たちにも経営者と同様に、自分たちが生きるための場であり、手段であり、器として会社を捉えて夢中になって欲しい。そのためには私が変わらなければ…」。そんな決意を固めて、社内のあらゆる階層との飲み会を頻繁に開いては、自ら酒を注いで回った。
 「今日の話はわかってくれたか?」「私はこう思いました」「そうか、俺が伝えたかったことはな…」。素直に感謝の気持ちを伝えられなくては、なかなか心は開いてもらえない。「もっと社員の立場に立たなければ」と懸命に耳を傾け続ける5年間。すると社員たちは少しずつ率直な意見を出すようになって行った。
 そして、社員との強い絆の芽生えを感じて心の余裕も生まれ始めた2000年。カワタキよりも規模が大きく、関東に地盤を持つ三宝商事との提携話が舞い込んだ。信用力向上と苦境に陥った会社を救うために、その経営を引き受けた。
 しかし、強い商品力に頼り切ったその組織は累積赤字以上に厳しい状況であることがわかってきて、「これは大変だ…」と再建に向けた試練を改めて覚悟せざるを得なかった。同じころ、カワタキでも重大な課題が立て続けに持ち上がっていた。「苦しい…。しかし、これがまた新しい成長につながるはずだ」と懸命に自分に語りかけ、50歳の体で週に一度は始発の新幹線に飛び乗った。


 三宝の社員たちの中に自ら入り込み、経営の実態を理解してもらって意識改革を進めながら、カワタキでは成長した社員たちに日常業務を委ねて重要案件を怒涛のように処理する1年間。すると、少しずつ三宝の社員たちも「個人も会社も幸せになる働き方をしよう」と気づき始めて利益も出るようになった。
 さまざまな問題が解決した年末にカワタキの従業員の前で挨拶した。「みなさんのおかげで苦しい一年を乗り越えられました。しかし、困難に陥った会社の再建という善なる行為をしたからこそまた大きな成長ができ、この一年は希望の年に変わったのです」。そのとき、再び大きな拍手がフロア中に響き渡った。
 2005年に最新鋭整備を導入した巨大な新本社ビルで請け負った物流事業。不慣れとコミュニケーション不足で、物流部門の全スタッフが連日寝袋で泊まり込んで作業を続けている。それを見た営業や管理部門スタッフたちまでもが「なんとかしたい」と全社が一丸となって乗り越えて行く。いつしかグループ従業員726名の多くの顔に、会社という舞台で成長する「自己への誇り」が宿っていた。
 20代からもがき苦しみ、生き方の支柱や成長の指針を探し続けたからこそ出会った稲盛氏の教え。しかしその多くを体得できたのは、たとえ摩擦が起ころうとも自ら決断したことに「昨日よりも今日、今日よりも明日。私の成長こそが会社の成長」とド真剣な努力を重ね、26歳のときに自分に言い聞かせた「社員の幸福に向けて経営者が全能力を傾け続ける」という理念を追い求めた結果だった。
 それが従業員たちに伝わり、会社に素晴らしい「人格」が宿って行く。新本社ビルを「京都こころの創造館」と名づけ、若い頃は飛び出したかった京都の地から、従業員と共に心を込めた商品作りや物流を更に推し進めて行く。


(記載内容は2006年8月時点における情報です)