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株式会社ゼネック 代表取締役社長兼CEO 美馬芳彦さん
社員第一号の営業マンと
社員第一号の営業マンと上向きはじめた売上を喜び合い、初めて飲みに行った創業2年目。

 大阪や京都の巨大メーカーに飛び込み、1ヵ月間に100枚以上の名刺をもらう一方でかたっぱしから電話をかけて営業する毎日。露骨に嫌な顔をされ、鼻先であしらわれても、手作りのパンフレットを渡して食い下がり、小さな仕事で実績を積んだ。
 「人を大切にする経営をしたい」という思いに共感してくれた銀行員が1000万円の融資を引き出してくれて少しずつ売上は伸ばせたが、月5〜10万円の給料しか取れない。妻のパートの収入に支えられて2年目を迎え、任されたゴルフ場スタッフの募集・研修業務は成功を収めるものの、バブル崩壊で継続取引は望めなかった。
 それでも地道に営業に励む中、ソフト開発の仕事の多さや不況で仕事にあぶれ始めた技術者たちの姿を目の当たりにし、IT分野へと事業を絞り込んでいった。
 やがて「社長の下で働きたい」と、前職の半分以下の給与で若い営業マンが入社し、徐々に安定した受注が入り始めた。ただ、顧客からの入金前に技術者に報酬を支払うため資金繰りは苦しく、営業を制限せざるを得ないことが悔しい。同業他社が目先の報酬目当ての礼儀も知らないフリーの技術者をかき集め、教育もしないままに開発現場に放り込んで儲けている様子に憤りを感じた。
 40歳を目前にしても子どもに贅沢もさせてやれない生活。それでも数人の社員と一緒に受注を喜び合い、仕事を紹介した技術者から「ありがとうございます」と言われることを励みに乗り越えていく。創業から3年が経ち、やっと月々決まった給料を妻に手渡せるようになって、ほっと胸をなでおろした。


 ある日、大企業から請け負った開発中のプログラムに100を越えるバグが見つかり、丸2日に及んだ話し合いの末、追加料金契約無しでの修正を通告された。腕を買われて仕事が雑になっていた技術者を「逃げずに最後までやり遂げろ」と説得する一方で、赤字覚悟で工面した金で彼に報酬を支払った。すると顧客からは「責任回避する会社が多い中で、きちんと対応してくれた」と契約料が振り込まれる。「業界や仕事の規模の大小は違ってもやっぱり大切なのは信頼なんや」と確信を深めた。
 ただ、技術者教育の必要性をより一層切実に感じ、正社員雇用を推し進める。同時に1997年には派遣技術者募集を専門に行う別会社を設立して、一匹狼のようにプロジェクトを渡り歩く技術者にも「フリーランスとしての生き方を確立するために、もっと自己の成長を考えて欲しい」と様々な教育プログラムを設けた。さらにバーベキュー大会や忘年会なども開催し、盛んに交流を促した。
 また、営業マンと技術者の面談の中で社会人としての基本的な姿勢を教え、様々な相談に乗って職場環境の向上のために企業側と交渉を続けた。彼らのモチベーションの高まりと共に顧客からの信頼は厚くなり、大手企業との取引が増えていった。
 しかし、社員が40名を超える頃になると、一緒に会社を作ってきた優秀な技術社員が派遣先の大手企業に引き抜かれ去っていくのが悔しい。ある日、外部から迎え入れた幹部社員の「社長は社員の家族も合わせ150名以上の人を養っているんです」という言葉に、改めて社員の将来を背負っている経営トップの重責を痛感した。
 そして創業5年目にして経営計画書を作成し、社員にビジョンを示す。さらに問題が起きれば自ら現場に駆けつけ、その解決法を顧客に提案することで次の仕事をもらっていく。創業7年目には年商8億円で経常利益4000万円を叩き出した。



バーベキュー大会や運動会など年数回のイベントが、仲間と助け合える組織作りに一役買っている。

 しかし、さらに組織が拡大していくうちに社員同士のコミュニケーションは型どおりになり、技術者が過剰な仕事を抱えていることに気づけずに、納期に間に合わない事態が重なった。2500万円かけて同業他社から技術者を呼び、自社の一室での開発で事態を収拾しながらも「このまま朝が来ないでくれ…」と頭を抱えた。
 「社員が100名を超えたらどうなるんや…」。自らの信念を組織的に機能させる仕組み作りを模索して取引先へ会社見学を頼み込み、社外秘の人事評価制度を見せてもらった。飲みに行った先でたまたま知り合った経営者にも相談を持ちかける日々。
 そして、「挨拶や報告といった基本が信頼を築く」と会議のたびに伝え、実践してきた時間やコストの管理を徹底的に教えて、自らは営業現場から身を引いた。同時に開発分野ごとに事業分割し、創業から共に歩んできた30代社員を執行役員に任命して「自分たちの判断で事業部を運営してくれ。尻は俺が拭く」と力強く言い放った。
 そして、年商が毎年1億円ずつしか伸びない焦りを抑え見守り続けた4年間。少しずつ変わり始めた社員の仕事姿勢に比例して新規取引が増え、とうとう2006年には一気に5億円の伸びを見せて、年商は20億円を越えた。
 自らを変えてくれた親分肌の大将に憧れ、店を持つ夢を描きながらも安定のために意に沿わない会社勤めに耐えた十数年間。その苦悩があったからこそ、自らのもとに集う一人ひとりがイキイキと前向きに仕事に取り組める会社を作ってきた。社員100名、フリーの技術者200名以上の組織になった今も、自らに共鳴する社員たちが力をつけ、思いを隅々まで伝えてくれている。「まだ経営者として学ぶことがたくさんある」。多くの人に支えられて築き上げた信頼関係のもと、パートナーとして高めあうより強い組織作りを目指して、真摯に人に向き合い続ける。


(記載内容は2007年1月時点における情報です)