1997年に44歳の若さで取締役に抜擢されてもその状況は変わらなかった。「人は50歳を超えると粘りがなくなる。ここで社長になるまで最低10年。そんなには待てない…」と、初めて自ら起業することを考え始めた。1年後に投資事業組合に関する新法が施行されることが決まり、一口100万円で出資ができるようになって資金が集めやすくなることはわかっていた。大学や銀行の大先輩や取引先の経営者に、冷静な市場予測と、思いを込めた事業計画を語ると、資金提供者も現れ、7000万円の資本の目処がついた。
ただ、ついに独立を決意して妻に告げると、「なぜいつも決めてから言うの?家計もこれから大変な時期なのに…」と慰留された。まだ高校生をはじめとする4人の娘がいた。「大丈夫だよ。人並み以上の教育は必ず受けさせる」と強くは言ったものの、会社の部下たちを引き抜く勇気は持てない。「一人なら何があっても家族を食わせて行ける…」と、1998年9月、株価がバブル後最安値を更新する最悪の環境の中、45歳で起業した。
日本のベンチャーキャピタルの誕生の地で、独創性を重んじる京都を本拠に選び、古い呉服会社のビルの一室に事務所を構えた。1年で50億円を集め、「まじめで一生懸命な企業」に投資して10年で国内トップのベンチャーキャピタルになる、と目標を掲げた。
ところが、まずは10億円を目指した投資ファンドには、2億5000万円しか集まらなかった。それでも、かつての部下などを採用して、組織づくりをした矢先の設立10ヵ月後、初めて投融資をした会社の社長が夜逃げをして、7000万円が回収不能になってしまった。
「川分さんの投資基準では経営が成り立たない。社長交代を動議します」と、20年来の知人だった役員が、社員たちの不安を代弁して詰め寄ってきた。財務調査を外部に依頼した判断が甘かったことを悔やんでも仕方がない。それより、信じていた人に裏切られた痛みと、「社長を追われれば信用がなくなる。信用こそが命なんだ…」という恐怖が毎晩襲ってきた。薬を飲んで金曜の夜だけはなんとか8時間の睡眠をとる一ヵ月。朦朧とする意識の中で、「社長は眠れないなんて嘘だと思ってたのに、本当だ…」と思った。
いよいよ株主総会を控えた11月に、国の外郭団体の中小企業総合事業団から5億円の出資が決定した。失いかけていた自信が少し戻り、社長続投も決まった。自らの給料を5割カットし、従業員3人の体制に戻しての再スタート。しかし人間不信は回復し切らず、ある証券会社との業務提携を途中で破棄して、大切な知人に迷惑をかけたりした。
ただ、当初に見込んでいた投資ファンドの管理費ではなく、投資先へのコンサルティングに注力して、翌年2月には単月での黒字化、12月には投資先が初めて上場。そして、年明けの4月に、設立3年にも満たない段階で新卒社員6人を迎え入れた。「会社は新卒が育てば飛躍的に伸びる」と前職のときに痛感した。月々の人件費の急増に頭を抱えながら、親子ほどに歳の離れた新人たちに日夜OJTで信念や知識を伝え続けた。
設立3年後には、「時期が悪いから1年延ばしませんか?」と言う証券会社を変更してまで、自社の上場を実現させた。投資先や社員に、言ったことは必ず実行する姿勢を示したかった。上場式典には新卒たちが誕生日に贈ってくれたネクタイを締めて参加した。
そして投資先も2社目、3社目が上場、東京支店を出して人を増やし、地方自治体のベンチャー育成ファンドの管理業務も任されて成長期に入ったそのときに、会計基準が変更されて、赤字決算を計上せざるを得なくなった。日本経済の構造改革の先行きへの不透明さに株価も更に最安値を更新し続け、経営上は何の問題もないのに、25万円だった会社の株価は2003年には4万円弱まで値を下げ、資金集めが困難になって行った。
若手を中心に動揺が走った。上場実績もまだ少なく、資金が集まらなくて次の投資もできず、将来不安から更に資金を集める自信をなくす悪循環。「ベンチャー投資は結果が出るまで7年かかる。やがて利益が上がってくる」と懸命に説明しても、3人、4人と退職が続いた。上場後は幹部の発想も保守的になっていて、ついに将来を託す人材と目していた若手2人から、「いまの幹部の元では仕事できない」と辞表が出された。しかし、「家庭を背負いながら私に賭けてくれた幹部たちを私は取る」と、引き止めはしなかった。
それでも毎年採用を続けて、若手との議論に時間を割き、ときに自宅にまで招いて心を通わせる一方、生損保などの機関投資家への営業体制を整えた3年間。そして上場実績が10社を超え、株価が上がり始めた2005年8月、過去の10倍規模のファンドを設立するとついに若手や幹部たちが100億円を集め切って、組織が強く前進し始めた。
進むべき方向に迷い、後悔しながらも決して手を抜かなかった銀行員時代。そこで培ったタフネスさで投資先の経営者を激励・指導して回る姿は、憧れの教育者の姿である。手に入れていたものを捨てる決断こそがこの天職に引き合わせ、今では20代部長がいるほどまでに育った社員たちと、10年で国内トップに立つという目標へ向けていよいよ挑戦する。