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 そして、独立から7年後の34歳には「まんざら亭」だけのイメージから脱却したくて客単価を8000円に設定した新ブランドの割烹をオープンした。ところが、初めて外から雇った料理人たちは創作料理の案を聞き入れてくれず、妥協したままのメニューを提供して月100万円もの赤字がかさんでいく。3ヵ月もすると「これは失敗する…」と思ったが、周囲から「調子に乗ったからや」と思われたくなくて、場所や人のせいばかりにしてなかなか閉店に踏み切れない。
 社員に心配されても一人で抱え込み、逆に開き直って飲み遊ぶ毎日。社員たちはなおさら不安を覚えて「まんざら亭」の売上まで落ちる悪循環の2年間。ついに、プールしていた2000万円を使い切り、意を決した幹部から「もう諦めましょう」と強く迫られてとうとう「まんざら亭」に業態変更した。
 「一から出直します」と手書きしたDMを発送し、自ら調理場に入って店を立て直し、同時に一人で突っ走って心を閉ざしてしまった自分を反省して、3年間は出店を控えて海外への慰安旅行などを通して従業員との意思疎通を図った。
 ただ、東京で同じようなコンセプトのチェーン店が高い接客技術や豪華な内装で台頭する様子に危機感を覚えた。「まんざら亭」をブランド化して対抗しようと百貨店での惣菜販売を始め、既に40歳を迎えながらも、毎朝4時半起きで配送と店頭販売に励んだ。予想以上の知名度の低さに打ちのめされて1年半で撤退したが、今度は5店の「まんざら亭」を安心して社員に任せられていた。


15周年のイベントでの一枚
15周年イベントでの一枚(右端が木下社長)。このと きに始めた和太鼓はOBたちと今でも続けている。

 そんな中、証券会社からは何度も株式上場を勧められたが、大金持ちになることに興味は感じられない。また、数年前から毎年2人ずつが独立していってそのたびに寂しさを感じ、ただ独立させるのではなく、のれん分けやFC化で収益化することも頭をよぎってセミナーにも参加してみる。それでも、「やはり自分と同じように、本人が思うような店作りをさせてやりたい」と思いとどまった。
 ただ、社員たちが独立者に羨望の眼差しを向ける姿を見るのが辛くて送別会には参加できなかった。「少し儲かっても後々のために貯金しておけよ」などと助言したり、自分の開業当時の話をしたりして陰から応援する4年間。すると、独立していった8人のOBたちが声を掛け合って「まんざら亭」の15周年を500人規模のイベントで祝ってくれた。OBたちと一緒に和太鼓を叩きながら、「俺もまだまだ挑戦し続けて、いつまでもみんなの希望でいよう」と強く思った。
 そんなとき、祇園店の来店客に「こんな店が東京にあったらなあ」と言われて開業当時の夢を思い出した。頻繁に東京を訪れては、1年半かけて自ら条件の良い物件を見つけ出す。「まだ人を育てましょう」という幹部の声に耳を傾けながらも、「今ならヒト・モノ・カネが揃ってるんだ」と押し切って6000万円を投下した。京都の6店を社員に任せて東京へ移り住み、知人に声をかけ、自ら周辺ビルに飛び込み営業し、先頭に立って接客をするとすぐに大繁盛した。


 しかし、1年後に京都に舞い戻って祇園で始めた「大人の隠れ家」がコンセプトの新店はなかなか軌道に乗らない。その運営に掛かりきりになると、今度は東京の店の売上がみるみる減って月々赤字を重ね始めた。すっかり意気消沈する東京の社員たちを励ますために祇園との間を往復する日々が1年間も続く。
 ようやく祇園の新店が利益を出し始めると、今度は銀行にも背中を押されて、中華料理店やイタリア料理店に次々と挑戦した。その分、なおさら東京の店にかかわる時間は減り、ついに本社の利益まで食いつぶし始めて閉店せざるを得なくなった。「もし今まで独立希望者たちを引き止めていれば、もっと東京に集中できたのに…」。中華料理店の収益化も難しく、ふとそんな悔しさが心をよぎった。
 しかし、気づけば店舗数は9にも増え、既に18人を育て上げて独り立ちさせていた。そんなOBたちが「俺は『まんざら亭』で学んだ」と言ってくれるからこそ、多くのスタッフが集まってくれている。「すべては俺が選んだ道。今は『まんざら亭』を大切にして足元を固めよう」と感じられるようになった。
 自ら少しずつ視野を広げ、我慢と努力を重ねて自分の好きな仕事で開業した。友人・知人やスタッフに支えられ、次のステップに向けて着実に準備を進めて決断し、ときには痛い目にあいながらも成長を重ねてきた。現在は次の夢を模索中。50歳からまた新たなことにチャレンジしたい。そして、夢にまで見るフランス旅行を当面は我慢して、今改めて本当の経営者になるための勝負が始まったばかりだ。


(記載内容は2006年7月時点における情報です)