ところが、収納付マンションが普及し始め、バブルの崩壊も相まって、1年後に突然売上が半分にまで落ち込んだ。あっという間に社員の士気は下がり、店内は掃除も行き届かなくなってくる。「やる気あるんか!」と怒鳴り声を上げることしかできず、困難を克服して大成功を収めた経営者たちの自伝を読み漁った。
そんなある日、キズモノ家具を扱って売上を伸ばす店が名古屋にあると噂を聞いて、すぐに足を運んだ。雑然とした店内で、「どうせ子ども部屋に置くものだからこれくらいの傷は平気だ」と次々と商品が売れていく。その店には、バブル期のように見栄えにこだわり、かしこまって家具を選ぶ買い物客はいなかった。「これが消費者の本音なんや!」と大きな衝撃を受けた。
しかし、父の代から30年近くかかってやっと築いた家具店のイメージを自ら壊し、「タキシタさんはキズモン屋」と言われるのは耐えられない。「何も無いとこから始めたんや。好きにせい」と言う父の言葉を思い浮かべながら、キズモノ家具の売り方や店のコンセプトを何度も頭の中で作っては練り直した。
ついに1年後の1996年、十条店をキズモノ家具専門にリニューアル。徹底的に価格を下げ、ところ狭しと積み上げた商品の中から欲しい家具を探し出す「家具の宝島」をオープンさせた。はまり込んだ競艇もとうとう止めて、仕入れと接客に必死になった半年間。十条店は何とか活気を取り戻し始めた。
しかしキズモノ家具以外の売上は下がり続け、悔しさが募った。「俺にしかできんことで目に留めてもらうんや」とテレビショッピングの収録前に破れかぶれで女装したが、幼い頃から苦手な人前でさらし者になると思うと生きた心地がしない。控え室で妻の横に座って出番を待ちながら、猛烈な後悔が襲った。
緊張が極限に高まる中、とうとう恥をかなぐり捨ててテレビカメラの前に立ち、必死におどけてみせた。するとスタジオは大爆笑に包まれ、放送後に注文が殺到。普段は30台も売れないベッドがなんと130台も売れてしまった。
「人を楽しませたら商品も売れるんや!」と反響の大きさに衝撃を受け、主役になる楽しさも知って「もっとオモロイことをやってやろう!」と店のキャラクターのバイキング姿に変身。「のぶちゃんマン」を名乗って、店内を走り回った。引っ込み思案だった自分を捨ててチラシにも登場し、嫌がる社員にまでメイクさせて「キズモンでも質はいいんですわ」「店にクーラー無い分お安くします」と本音の接客。あっという間に売上は倍増して3店舗目をオープンさせた。
1998年、45歳で念願の大学に入学。現場を社員に任せて週4日経営学を学び、土日は着ぐるみで店に立った。「目指せ100店舗」を掲げたチラシのお陰で物件情報が集まり、3年後には9店舗で10億円を売り上げるまでになった。
同じ頃、熱心に通ったベンチャー支援施設の所長の紹介で「日本一の着ぐるみ社長」と有名雑誌に掲載され、一気にマスコミから注目された。ついに全国ネットの超人気トーク番組に招かれて、「もう後には引けない」と体が震えた。プレッシャーの中、腹の底から出る言葉で全国に自らのやり方を宣言すると、「俺が追求する商売道はこの泥臭いやり方なんや!」と覚悟が決まった。
すると、4年前から毎週開いていた社員勉強会「商人塾」でも「勝つも負けるも自分次第。自分を売れ!」と確信を持って語れるようになった。魂を込めた経営理念を唱和して一体感を高め、リストラや倒産で気落ちして転職してきた社員たちに「これが自分を変える試練なんや」と、のぶちゃんマンの格好で接客させると、売上を伸ばして自信を取り戻していく。
年商は20億円を超え、証券会社や取引先、マスコミにも応援され2008年の株式上場を目標に掲げた。あっという間に社員数は100名近くになって、今再び一人ひとりの不満を真正面から聞き、格好をつけずに疑問に答える日々を送る。
志もない気楽な生活に甘んじながら、納得感を得られなかった20代。商売に没頭して面白さを知り、周囲の声を恐れずに本音の勝負に出て、40代を迎えてついに本物の経営者への一歩を踏み出した。人の弱さも、それを乗り越えた強さも知っているからこそ「人は変われる。殻を破れ!」と訴え続けている。
テレビやラジオで語る商売道に共感し、「商売人になりたい」と面接に訪れる若者も多い。成人した長男がマスコミの取材で「のぶちゃんマンとして働く父はカッコいい」と語ってくれた。いよいよ50代。「これからが勝負や!」と全力で目標に突き進む。