経営者の生き方から自分を活かす働き方発見・学びサイト「CEO-KYOTO」


 父が18歳のときに、西陣織の考案者・山下家出身の創業者から3代目の祖父が他界した。両親は親戚たちから「先代の遺産を食い潰しかねない」と借家に住まわされて、長年一人っ子として育てられた。そんな親族たちに反発して独自の商いを始めた父は洋服の「織ネーム」に目をつけたが、既に業者が入り込んでいる問屋に足繁く通ってもなかなか取引はできず、質素な生活を強いられた。家でいつも両親の商売の話ばかりを耳にして自然と大人びてゆき、小さい体なのに口は一人前だ、と小学校の先生から「DATSUN」と呼ばれた。しかし、問屋には腰を低くする一方で、内職で家計を支える母に八つ当たりする父を見て、「こんな卑屈な家業は継ぎたくない!」と、東京の叔父母の影響で小説家になることを夢見ていた。
 中学では成績が良くて先生には京大を目指せと言われるが、高校では急降下してしまった。その成績を挽回する努力に意味は見出せず応援団に入部した。授業中も部室で過ごし、学ラン姿で試合の応援や、他校の殴り込みから学内行事を守る硬派な生活。一方で、休日にはMEN'S CLUBに載ったファッションを身に纏って河原町のジャズ喫茶で過ごした。アパレル業界の主導権を握り始めた生地加工メーカーをいち早く顧客にして20人を雇用するまでに商売を拡げた父をマネて、やがて祇園にまで足を運び始めてお姐さん遊びにハマっていった。
 なんとか大学に滑り込み、小銭稼ぎに父を手伝ってはさらに精を出した花街遊びのなかで、自らの才覚で稼いだ金で楽しむ大人たちに圧倒された。ただ、「俺も事業を起こして自分の力で勝負したい」と思っても新しい商売は思いつかない。納品先から「ネーム屋!」と呼ばれる屈辱を感じながら、「この手工業的な仕事を“事業”にしたる」と家業に入った。


 職人たちに安く大量生産させたラベルを納品して利ザヤを稼ぐ父に対して、「こんな商売はいつまでも続かん。もっと価値や喜びを感じられるモノづくりをしようや!」と、正論ばかりを吠え続けた3年間。職人技に頼らずに顧客の要望に素早く対応できる最新プリントラベル機を輸入しても、「そんな安モンを客が欲しがるかい」と小馬鹿にするだけの父。次のマーケットに布石を打とうと言っても、「関西のメーカーとつき合いを深める方が大切」と頑と首を縦には振らず、「この男に勝たない限り、俺は大人になれない」と思った。25歳で「俺が東京市場を開拓する!」と京都を飛び出しても、「勝手にせい」としか言われなかった。
 繊維の街・日本橋ではなく、既に流行を発信し始めていた青山にアパートを借りて、たったひとりで山手線を一駅ずつ降りてはVANなどの中堅アパレルに飛び込み営業する。アパートの壁に近郊地図を貼って訪問した会社の所在地に毎日ピンを刺していった。同じ会社に顔を出すたびにキレイな受付嬢から冷笑されても、担当者に内線連絡するその番号を盗み見して書き留め、夜遊びも封印して「1億円の売上をあげるまで京都に帰らん」とただガムシャラに働く日々。事務所に注文の電話が殺到する風景が夢にまで出てきた。
 おりしも、洋服に取扱方法や素材の表示をすることを義務づける法律が決まって通産省に情報収集に飛び込むと、5センチ以上もある関連書類を惜しげもなく見せてくれる。それを必死でマニュアル化すると各メーカーに喜ばれて少しずつ取引が生まれた。京都で導入していたプリントラベルへの関心も高まり始めて、1年後には売上1億円をたたき出せた。


本社ビルの竣工式
本社ビルの竣工式。まだ34歳で父と子が最もライバル視し合っていた時期。

 しかし、そんな自信を胸に京都に帰っても、「親父がいるからこその会社や」という声があちこちから聞こえて消えない。「この亡霊にいつまでつきまとわれるんや」と、今度は福井の織物業者とプリントラベル専門会社を立ち上げた。大量生産、大量消費の時代が終わって、メーカーは色数を増やしてサイズも細分化し、その品番管理用にラベルにも小ロット対応やメーカーの生産進捗に合わせたオンタイム納品が求められて期待されていった。
 「相手の言いなりになって作って届ける商売なら誰でもできるわい!」と、息子をライバル視しながらも簡単には認めない父。福井の工場で機械と格闘し、納期直前には京都の営業のフロアに機械を持ち込んで徹夜で作業を続けた。「休みも取れないこんな毎日がいつまで続くんや…。企業勤めの方がよっぽど良かったわ」と嘆きながらも、「これは自分の仕事なんや」と父に対する意地で耐え続けた数年間。すると次第に受注は増えていき、初期投資も回収して、オイルショックのパニックもどこ吹く風で成長した。福井の倉庫は、機械についたインクを拭うためのトイレットペーパーで満杯になっていた。
 商いが拡大して喜ぶ父を横目に見ながら先行投資を続けた30代。ラベル以外のアパレル副資材も一括して取り扱う体制を敷き、福井の田畑の真ん中に2億円規模の物流センターも建てた。一台3000万円の西ドイツ製最新レピア織機4台導入、神戸・大阪への営業所進出…。そして“ネーム屋”からの脱皮を図って、営業とデザイナーをマンツーマンに配置して顧客のブランド展開をトータルに提案していった。ダイエーなどのスーパーという新業態が市場の消費意欲を盛り上げていく勢いそのままに業容は拡大し、いつしか会社は業界五指に数えられていた。


(記載内容は2006年2月時点における情報です)