さっそく法人化して、まだ2教室しかなくても設立趣意書には「国際社会で活躍できる人材を育成する」と志を高らかに謳った。京都府内に1年に一つずつ教室を開き、母子家庭には授業料を半額にしたり、社員の良い生活を確保するために5ヵ月分の賞与を必ず支給し、自ら教室間を走り回って授業をした3年間。
しかし、それでも老舗の塾には合格実績で太刀打ちできない。あるとき「塾生に全5教科を教える体制にしたい」と思っても、社員たちの意見に耳を傾けると「授業料が高くなって生徒が減りますよ」という声も当然に思える。授業や保護者との面談の合間を縫ってみんなと話し合う数ヵ月が続いた。そして、「もう学校が生徒を指導できていない。勉強以外の人間教育も僕らがやって行こう」と語りかけ続けると社員たちの目が輝き出し、ついに新体制に踏み出すと生徒数は逆に増えて行った。
ただ、社員が少人数に丁寧に指導する教室体制では人件費がかさんで利益は残らず、新しい教室の賃貸保証金が用意できない。そんなとき、人口が急増する滋賀の主要駅前でまだ割安な土地が買えると知り、銀行に教育への想いや途上国支援への情熱を語ると、心意気を感じて全額融資をしてくれた。同時に東京で良い教材システムがあると聞いて導入すると、次々と開校した滋賀の教室から次第に有名校合格の実績が上がり、京都でも評判が高まって優秀な生徒が集まり始めた。
44歳のときには、社員採用のためのイメージ向上にドイツで邦人子女向けの塾も開く。しかし、海外での学校づくりの経験を積もうと買った現地の古城は採算が見込めず、「もっと実力がないと夢は叶わない…」と損を切りながら売却するしかなかった。
愛知県にも進出して既に教室数が20を数えた頃にはバブル崩壊が家計を直撃し、5教科学習で割高な授業料が敬遠されて生徒数が伸び悩んだ。そして銀行の貸し渋りも始まり、給料日2日前でも現金が用意できないことも増えてくる。
既に50代を迎える中で、銀行との融資交渉をギリギリまで続け、せっかく育った各校の校長が新興塾チェーンに引き抜かれたり、社員が病欠するたびに各地で授業を引き受ける日々。「こんなに頑張っているのに何で儲からん…まだ実力が足りんのか…」と懸命に経営セミナーなどに参加し、コンサルタントに助言を仰いだ。
収益向上に向けて幹部たちが4〜5時間でも足りない議論を重ねた数ヵ月間。そこから細分化していたクラスの統合案が出ても、更に若手社員の声まで拾い上げて行く。かつてから月に一度は全社員を集めては自分の想いを伝え、社員数が100名を超えた頃からは、社員が自分の成長を自己評価する仕組みや、将来の進路に関する自己申告制度を導入していて意見は活発に出る。そしてついに教室統合を決断すると、幹部たちが丁寧にその意図を伝えて行き、社員たちは納得感高く教室を運営して翌年の利益は4倍になり、新しい教室展開への意欲が高まった。
翌年からは敬遠してきた激戦区の大阪や兵庫にも進出し、ついに政治を断念してから19年目の1999年10月、大証2部に上場を果たした。同時に、ミャンマーの国立聾唖学校に対し、一人でも多くの生徒が通学できるように寄宿舎やバスなどを寄付。55歳にして創業の志の実現に具体的な第一歩を踏み出すことができた。
2000年に入り、個別指導での成果を上げるある地方の会社の情報を耳に入れ、すぐに見学させてもらってコツを感じ取った。「これなら学びたい子どもすべてに合わせた念願の教育ができる!」と、同業に比べて人件費率が高まっても採用し続けてきて既に力強く育っていた社員たちを長にして、毎年10〜20の個別指導教室を開いて行く。そして、各現場で生まれた気づきを持ち寄り、独自のノウハウを高め、4年後には完成させたその運営システムで、FC教室の全国展開に踏み出した。
ただ、FCや英会話教室なども含めた教室数が280を超えた2005年12月のある土曜の朝、信じられない連絡が入った。一人の学生講師が教室内で、希望に満ちた幼い塾生の命を奪ってしまった。「そ、そんなことはありえない」と、冷静さを自負した体からガクンと力が抜け、頭が真っ白になった。「一体、どうしたらええんや…」。
そんなとき、子どもたちや保護者に歯を食いしばって対応し続ける社員たちの姿が目に入って我に返った。「冷静になれ!社員にしか目配せできない体制にした私の責任だ。私が命を賭けて再発防止することでしか、ご両親への償いや社員に報いることはできない」と懸命に自らに言い聞かせる。あらゆる批判を真正面に受け止め、「これを決して風化させてはならない」と夜を徹して誠心誠意様々な対応を続けた1年弱。そして今また、一人ひとりへの丁寧な指導体制の再構築に取り組んで行く。
純粋に社会に貢献しようと政治家への想いを断ち切って選んだ塾経営の道。社会に出るまでに学んだ、多くの仲間の想いに心を配ることで組織力を高めることを実践し、常にアンテナ高く情報を仕入れて決断して行くことで、志の実現への力を蓄え続けた。これからも、子どもたちや社員の成長を支援するために、自らが人間として常に真摯に成長し続け、より大きな志を実現することで範を示して行きたい。