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槇野常美さん

 四国の小さな村で育ったガキ大将。父は早く他界し、「人に迷惑を掛けるな」が口ぐせの母が自宅で養蚕業を営みながらつつましく暮らす姿を見て、「こんな仕事やってられるか」と思った。その一方、横浜で型枠大工をする兄は、大金を稼いで大勢の職人を従えてカッコいい。ただ将来は、よく面倒を見てくれる義兄が営む自動車整備工場で働こうと思った。
 ところが中2のとき、その義兄はガンを患い30代の若さであっけなく亡くなった。「高校は出ないといい仕事がないよ」。そんな母の言葉に耳も貸さず、早く収入を得たくて自動車整備士の資格が取れる職業訓練校へ進み、技術とともに様々な人間関係を学ぶ1年間。カレンダーの写真で見た舞妓さんの艶やかさに憧れて、京都の自動車販売会社に就職した。
 整備技術が向上し、自分の工具が増えていくことが楽しい1年間。寮まで押しかけて寝坊を叱ってくれたり、何かと面倒を見てくれる課長に頼んでみると、2年目からは高校にも通わせてもらえた。ただ、ヤケドや小傷も絶えない仕事は、爪の中まで油まみれになって、まだ17歳の若者にはカッコ悪く思えた。給料も寮費や母への仕送りを引くと2万円しか残らない。「この仕事では思い描くような生き方ができない」と3年で会社を辞めた。
 牛乳配達や私立探偵などのアルバイトを転々としながら、深夜まで繁華街で遊び回る1年半。しかし、7回目の無期停学で退学の危機に陥ると、寝泊りしていた大阪の姉の家にまで教頭と担任が来て、「今回は何とかしてやるから卒業しなさい」と言ってくれる。「こんなに心配してくれる人がいるのなら、もう一度頑張ろう」と心を入れ替えた。
 ただ、卒業が近づくと、アルバイト生活では将来が不安だと気づき、「とにかく正社員でいい給料を得よう」と不動産業を選び、20歳で賃貸マンション仲介の中堅会社に就職した。 


 四条大宮店に配属。まだ業界も未成熟で、苦情を訴える顧客を脅して追い返す先輩を見て「なんて下品な業界や」と感じる一方、緊張で来店客を前にしてまったく話せない。それでも、結婚資金を目標に必死で先輩の営業トークを盗み、雨が降ろうと毎日の会社の行き帰りに物件を見て回って夢中に商品知識を高める1年間。すると次第に自信を持って物件案内ができるようになって、数百人中トップクラスの売上を記録、主任にもなった。ただ、2年目にはある程度の高収入は得ながらも、「難しい仕事じゃないな」とマンネリを感じた。
 そんなとき、知人からマンション管理会社への転職話が舞い込んだ。「賃貸営業の部長が部下を連れて独立してしまった」と自分の経験を必要としてくれたその社長の期待に応えたくて、世話になった部長からの転勤の誘いを振り切って2年半で退職した。
 しかし、転職先の社員たちは、外から乗り込んできた人間への反発で嫌がらせをする。「実力で勝負や。まとめてかかって来い!」と猛然と営業に没頭して2ヵ月目から成績トップを走り続けると文句を言う人はいなくなり、どんどん成約を積み重ねて「俺は営業の神様や!」と思った。半年後には本店店長を任され、部下を怒鳴りつけたり、机を蹴飛ばしたりして深夜まで徹底的に指導し、半年間で月間売上を2400万円までに倍増させた。「槇野さんについて行けば成績が伸びる」。そんな空気が満ちた現場をどんどん仕切っていった。
 ただ社長は、売上を伸ばすための店舗展開や本店改装を提案しても取り合ってくれず、社員は会社の将来像が描けなくて士気が上がらない。しかも、取引先からの理不尽な要求まで丸飲みして、現場を牛耳る自分を煙たがるその姿を尊敬できない。「もうこの人の元では働けん! この仕事こそが天職だと思える自分には、もう独立の道しかないのか?」とつぶやいていると、数人の部下が「苦労してもついて行きますよ」と言ってくれた。


槇野社長ハワイ
社長に就任して店舗数も売上も拡大の一途を辿っていた頃。夢中に働き、思い切り遊んだ。

 とき同じくして、取引先から紹介された別の管理会社の社長。数百万円の資金と、将来は別会社にする前提で独立採算の賃貸営業部を任された。「社員にとって親同然の社長から、一度も叱られたことがなくて悲しかったです」。社長にそう告げて3年勤めた会社を去った。妻と2歳の娘に「もっと仕事人間になるからな」と真剣に話した。26歳だった。
 しかし、店舗を構えても来店客は一向に増えない。給料日には4人の社員を居酒屋へ誘い、トイレへ一人ずつ呼んでは「これで勘弁してくれ」と薄い給料袋を渡すしかなかった数ヵ月。社長から「やるなら日本一の会社を作れ」と言われ、「すぐに京都一になるで!」と大口をたたいてみんなの士気を上げながら、自ら走り回って懸命に扱い物件を増やした。
 3ヵ月目からは賃貸物件の情報誌を作り、書店に置いてもらって来店客は増えるが、繁忙期が終わればまだ不安定。つい社長に「アカンかったら辞めたら済むことです」と気楽に言うと、「簡単に言うな!」と叱ってもらえて、再び地道な努力を重ねることができた。
 8人分の給料が払えるようになった2年目。「始めたからにはどんどん攻めろ!」と尻をたたかれて店舗展開に踏み切り、出店のたびに先頭に立って物件を仕入れたり営業をすると次第に実績ができていく。創業から3年で5店舗を展開し、社員も増えた1989年、「そろそろ独立やろ」と社長から合格点をもらえて「長栄ホーム」を設立した。
 社員のみんなから推されて、その意味も考えないまま社長に就任した。すると、店舗や車を借りる契約の保証人になってその責任を痛感し、初めて書類に印鑑を押すときには手が震えた。「借金で人に迷惑を掛けたくない」と貯金を始め、管理会社に任せきりだった経理などの初めての業務に直面しても、そのたびに夢中で知識を吸収していった。


(記載内容は2006年6月時点における情報です)