経営者の生き方から自分を活かす働き方発見・学びサイト「CEO-KYOTO」

数字よりも大事なものがある‘和’と‘共生’の経営を目指す
大学卒業後、京都の銅素材メーカーに就職。総務・経理を担当していたが、入社1年目の暮れに会社が倒産する。退職を申し出るものの慰留され、営業への異動を希望。会社の再建が進む中、2年間営業経験を積む。その後、26歳で父親の経営する共栄実業に入社。当時の主要取引先は国鉄で、鉄道車両部品の商社として安定経営を続けていた。33歳の時に父親が倒れ、実質的な経営トップになると、父親の誠実な経営姿勢は受け継ぎつつも、鉄道車両業界での新たな可能性を模索し始める。1987年の国鉄分割民営化を機に、民間の車両メーカー等に直接アプローチ。大手企業とのパートナーシップを次々と築き、現在では国内全ての車両メーカーと取引を行うまでに。4年前からは、車両製作アウトソーシング化の動きを捉え、内装専門メーカーへと更なる事業変革を進めている。

経営者を読み解く8つの質問

経営トップになってそれまでと変わったことは何ですか
責任感

社長は会社のイメージそのものですからね。会社に対する世間一般の評価は、社長の日頃の生活態度や仕事に対する考え方、姿勢によって決まります。その意味で、NO.1とNO.2とではプレッシャーや責任感が全く違う。世間やお客様の目だけじゃなく、どんな困難からだって決して逃げちゃいかんしね。もちろんウチでも困難は今までたくさんあった。例えば国鉄民営化の時なんてそう。それまで国鉄と継続的安定的に取り引きしていたのに、民営化なんてもう想定外ですよ。何がどう変わるのか分からなかったけど、ただこのままじゃいかんと思ってね。「今をチャンスに変えるにはどうしたらええんやろう」と必死に考えて、直接車両メーカーに営業をかけた。それまでは全て国鉄が間に入ってたわけだから、最初はどこも相手になんかしてくれなくてね。それでも毎日毎日粘り強く通い続けると、次第に認められて取り引きできるようになった。他にも、新しい部品素材の開発など大手企業と組めるチャンスがあればとにかくチャレンジしましたね。
やっぱり危機意識がないのが一番の危機だと思う。受身のまま流されていたら、今のうちのポジションはない。新しい試みをどんどんやって、その分失敗もしたけど、だからこそそれが糧になっているんだと思います。

もし、経営者になっていなかったらどんなお仕事をされていますか
アナウンサー
これは憧れみたいなものかなあ。就職活動の時に放送局を受けたことがあるんですよ。結局ダメやったけど。子供の頃、声に出して本を読むのが好きで、しかもボーイソプラノみたいにええ声やったからね。自分で言うのも何やけどね。
だから自分が就職するにあたって、アナウンサーになりたいという気持ちはあっても、親父を継いで経営者になろうとはあまり考えてなかったんです。就職した会社がたまたま倒産したから、親父も心配になって「ウチに来い」となったわけで。ただやっぱり、いずれ継ぐことになるんだろうな、と漠然とは思っていたような気がします。オーナー家としての責任というものを感じていたんでしょうね。
好きな言葉・座右の銘を教えてください
誠実・勤勉・感謝・謙虚・利他
働くばかりが能じゃないとか、働くばかりが人生じゃないとか言うけれども、しっかり働かずに豊かな人生は送れないし、生活の質は上がらない。しっかり働くというのは、こうした誠実・勤勉・感謝・謙虚・利他ということを基本にして一生懸命にやることだと思います。うちは創業以来58年になりますが、商売を行う上で、先代のときからこうした道理を大切にしてきたんです。まあ僕の若い頃は謙虚さに欠けてる時期があったような気もするけど、民間企業と取引するようになってからは特に、謙虚さとか感謝の気持ちとか、大事やなあと実感するようになりましたね。決して嘘をつかず、常に相手の役に立てるように考える。そうすれば支持してくれる人が出てくる。一人では何もできないけれど、支持してくれる人がたくさんできていけば何とかなるんですよ。