経営者の生き方から自分を活かす働き方発見・学びサイト「CEO-KYOTO」

自分の手で 嫌いを好きに変えていく
幼い頃より外国に憧れ、海外での暮らしを夢見ていたが、大学卒業後は父の起こした社員数12名の丸鋸製造工場を継がなければならなかった。「会社に入る前に自らの目で世界を見たい」と父に頼み込み、1年2ヶ月の海外放浪を経て帰国。入社後は海外へ目を向けた新しい展開を模索し、1974年には西ドイツ(当時)最大級の鋸メーカーとの技術提携にこぎつけた。あらゆるサイズの金属切断用丸鋸を一貫生産する専業メーカーとしての体制を完備し、超硬丸鋸の世界ではシェアトップクラスの企業へと成長した谷テックには全世界からオーダーが舞い込む。海外への強い憧れから生まれた夢を、自らの置かれた環境の中で実現させてきた。

経営者を読み解く8つの質問

経営トップになってそれまでと変わったことは何ですか
責任感
42歳で社長に就任した時には親父がまだ会長として残っていて、自分はそれまでと変わらず年間150日近く海外を飛び回って仕事をしていました。「私が経営トップである」という実感が、ズシっと圧し掛かってきたのは親父が会社を退いた51歳の時。もう、今までのように会社を空けていることはできない。「私が社員を引っ張っていかないといかん」と強く感じてね。ナンバーワンではなくオンリーワン企業を目指そうと決めた。その思いを社員と共有するために何年も試行錯誤して『谷テックバリュー』という指針を作ったんです。例えば、工場内に植物を置く。もし植物が枯れるようなことがあれば環境が悪いということだから、すぐに改善する。社員には「もっと緑を増やして工場内をジャングルにしよう」と言っているんですよ。心地よい環境で働くことで良い製品を生み出すことができ、よりいっそう顧客に選ばれる企業になれるはずだと考えています。
もし、経営者になっていなかったらどんなお仕事をされていますか
海外特派員
小学生の頃からトリニダードトバコとかカリブ海の小さな島なんかが新聞に載ると切り抜いてスクラップしているような子で、「将来はこんな国に住んで、世界に向けてニュースを発信したい」と思っていました。海外への憧れがとても強かったんですよ。だから、大学卒業後すぐに親父の小さな町工場を継がなければならないというのがとてつもなく嫌でね。それでもやはり、親類や親父の友人から「お父さんの苦労がわからないのか」と説得されるんですね。もう私が継がなければ、工場は立ち行かない。だから海外生活はキッパリあきらめて、「それならその前に世界を見てやろう」と、ソ連(当時)のナホトカからシベリア鉄道を乗り継いでモスクワを経由して、現地のアルバイトで食いつなぎながら、橋の下で寝たり、ヒッチハイクしたりで、1年2ヶ月かかって世界一周しました。その経験がもとになって、入社後は自分が先頭に立って海外との取引を始めたんです。海外を飛び回って、ドイツのメーカーと技術提携を結び、新たに開発した超硬丸鋸は爆発的な売上を記録しましたよ。現在の商品輸出率は実に35%。「こんな仕事は嫌や」と言っていても仕方ない。自分で好きな仕事に変えていくしかないからね。
好きな言葉・座右の銘を教えてください
為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは 人の 為さぬなりけり

上杉鷹山

何でも考えてるだけではいかんと。『やればできる』。その精神が必要なんですね。「親父に反対された」「お金がないから出来ない」。そういうことを言っていたら夢は実現できないわけで、できないのは自分がやっていないから。これが、谷テックバリューとしても掲げている『徹底完遂』『すぐやる。必ずやる。出来るまでやる』に通じるわけですよ。できないという前に本当にやったのかということを、自分に問うてみないといかん。 他にもね、『挨拶をする』『有難うと言う』『謝る』なんていう当たり前のことが仕事の忙しさを言い訳にしたり、自分の面子にこだわったりで、できないことがあるでしょ。それをちょっとした勇気を出してやってみる。すると、以前よりもっとスムーズに事が運ぶ。日常のほんの小さなことでもいい。なんでもやればできるんですよ。